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 母親運動の60年&活動(1)
母親運動のはじまり

「日本婦人の訴え」から「世界母親大会開催へ」

 
スイスのローザンヌで世界母親大会開催
1955年7月7日〜10日
スイスのローザンヌで世界母親大会開催

平塚らいてう

「ビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験によって、150カイリも離れた公海上で、平和にマグロ漁をしていた貧しい漁夫23名がうけた被爆の実相をつたえるとともに、三たびアメリカの原爆によって、はかりしれない被害をうけた日本婦人の怒りとたたかたいを支持してください。」(資料)

 
 1954年3月1日アメリカがビキニ環礁で水爆実験をおこないました。平塚らいてうほか5名は全世界にむけて(国際民婦連と各国の団体へ)「原水爆禁止のための訴え」を送りました。

◆スイスでの世界母親大会に日本から河崎なつを団長にあらゆる分野から代表を選び、14名(下記資料)が参加しました。はばひろい母親運動の出発点です。

◆代表派遣費用は1人約80万円(当時)かかりましたが、地域ブロックが責任を持ち、カンパ活動に全力でとりくみました。貧しいくらしの中から1円、2円と集め、なんと1人平均100〜150万円になりました。

◆帰国してから14人は日本中を歩いて、報告をしました。東北の土川マツエさんはまる2年間東北6県を歩いて180ヵ所、神奈川の菅原絹枝さんも毎日4〜5ヵ所など全体で2000回も報告会が開かれ、参加者は70余万人。母親運動の種まきとなりました。

ひとつにとけあった 涙の第1回大会

 
第1回日本母親大会
1955年6月7日〜9日
第1回日本母親大会(東京・豊島公会堂)

涙の訴えと参加者
涙の訴えと参加者

 
 全国から集まった母親、女性は2000人余。会場隣の会館の保育所に子どもを預けました。各地からの報告や発言、久保山愛吉さんの未亡人すずさんの訴えなどがありました。一同もらい泣きで会場は全員がひとつにとけあった大会でした。

日本婦人の代表
14名 9ブロックから代表選出(資料)

北海道 東 海
多嶋 光子 (炭坑主婦の会) 服部 勝尾 (愛知・県会議員)
梅田 幸子 (札幌未亡人会) 近 畿
東 北 藤田 寿 (大阪・家裁調停委員)
土川マツエ (岩手・農業の主婦) 中井 あい (京都・婦人連合会)
北 陸 四 国
大窪マスミ (富山・教育委員) 田中 弘子 (香川・教員組合)
関 東 九 州
野口 政子 (埼玉・国労婦人部) 山口みよ子 (長崎・被爆者)
菅原 絹枝 (神奈川・日雇労働者) 徳永喜久子 (福岡・主婦)
東 京 団 長
塩沢富美子 (伝染病研究所) 河崎 なつ (日本子どもを守る会)

母親大会のよびかけ

 
第1回大会記念品の手拭いと扇子
第1回大会記念品の手拭いと扇子。
手拭いは堀文子さんのデザインで平塚らいてうさんの文字、13万本が普及され、扇子も1万本が普及されました。

 
 「戦争の恐怖を忘れさることのできないお母さん、家や財産も失ったお母さん。息子を戦争の犠牲にしたお母さん。子どもを学校に出せないお母さん、病院も食事も満足に与えられない子どもたちのお母さん、失業している若者のお母さん、働く職場をもてないお母さん、そして自分は幸福だが他の多くの母たちの幸福をねがっている母親、そういうすべての母親が集まるのです。
 原子兵器の製造とか水爆の実験とか、また戦争になるのではないかとの不安が私たちをおそいます。すべての子どもの幸福を守るために世界のお母さんと話しあいましょう。婦人の権利をかちとるために、みんなで話しあいましょう。母と子どもが安心して住める世の中をつくるために、お母さんの力を結集しましょう。日本母親大会に集まりましょう。」

第1回大会の議長

久布白落美 (日本キリスト教矯風会)
山田 あき (世田谷家庭会・歌人)
羽仁 説子 (日本子どもを守る会)
小笠原貞子 (北海道平和婦人会)
櫛田 ふき (婦人民主クラブ)

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